「内在主義・外在主義」という、行為の理由の存否の確定をめぐって対立している二つの考え方が、哲学的行為論およびメタ倫理学それぞれの領野において、どのように"捩れた"形で問題を構成しているかが明瞭になるとともに、その対立の解決の可能性もある程度明らかになった。とりわけ、1.既存の「動機集合」から「推論」によって到達可能な理由を論じる場合に「推論」の外延をどこまで広く取りうるかによって、また、2.既存の動機集合を本人が確定するばあいの「一人称権限」をどうとるかによって、両者の対立は、かなりの程度まで緩和される見込みが明らかになってきた。この見込みを追求していくさいには、「信念と欲求」という背反的な対概念に加えて、"directive knowledge"というカテゴリーを提唱しているVellmanの提案もまた、一見思われるよりも有効であるかもしれないが、その点の考察は、なお今後の課題である。 したがって「自己決定」にかんしてもまた、「目下最善ないし次善」の選択にいたった本人の推論、およびその際の自分自身の動機集合の確定の仕方いかんによっては、一人称権限が無条件で尊重されるべきだとは限らないケースが多々ありうる、ということの理論的な根拠もかなり明らかになった。のみならず、実践的ケースに通じた研究者からの知見の提供によって、そうした推論の前提となっている本人の自己認識、とりわけ過去から現在にいたる自己の存在理由の認識いかんによっては、本人の「自己決定」の妥当性をめぐって相互に争うことのほうが倫理的に重要である場合もある、ということもまた、非常に具体的に明らかになった。 これらの成果は、本研究遂行者の長年の課題であるところの、「他者による描写の引き受け」としての自己性という大きな論題を解決していくためにも非常に有益であると思われる。
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