平成15年度は、明治後期から昭和期を中心に、(1)宮中祭祀における雅楽の奏楽状況の変化と、(2)天理教における雅楽様式の新作祭典曲「神の御国」の制定・教習過程を調査した。 宮中祭祀での雅楽奏楽種目は明治10年代初めにほぼ定型化され、各祭典の神饌奏楽には明治3年〜6年のみ神楽歌を用いたが7年(1874)からは再び唐楽に復した。明治41年(1908)皇室祭祀令公布後、明治44年(1911)に各祭典での神饌奏楽曲目(すべて唐楽曲)が決定され、さらに昭和3年(1928)からは一月一日祭典・元始祭・孝明天皇例祭・紀元節祭(朝・夕)・祈年祭・仁孝天皇例祭・春季皇霊祭・神武天皇例祭・天長節・明治天皇例祭・秋季皇霊祭・神嘗祭・賢所御神楽では、神饌奏楽に神楽歌(音取・榊・早韓神)が行われることになり(他の祭典は唐楽)、この形が戦後にも踏襲された。 教勢の伸張にともない政府の弾圧を受け、明治32年(1899)より神道本局からの独立請願を重ねていた天理教は、廃止を迫られた固有の「みかぐらうた」に代わる歌舞として、明治38年(1905)教長が選んだ15首への作曲・作舞を芝葛鎮(宮内省楽部楽師長兼雅楽師)に依頼し、翌39年2月18日の教祖30年祭において参音声・揚拍子・退出音声から成る「神の御国」(編成は拍子1・附歌1・和琴1・笛1・篳篥1・舞4)を初演した。同年8月には天理教内の各教会に「神の御国」を広めるため、東京から芝葛鎮・安倍季功・辻則承を迎えて奈良県丹波市(現在の天理市)の教会本部において約2週間の講習会を開催した。その後、楽譜が少なくとも3種刊行され、昭和8年まで各教会で行われた。「神の御国」の制定と普及のための講習会実施の手法は、昭和15年の皇紀二千六百年祝典に際し、当時の宮内省楽部楽長・多忠朝が全国の神社で同時奉納するために創作した「浦安の舞」に先行する神道系の新作祭典曲の事例として注目される。
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