本研究は、戦前期における神道系祭祀への雅楽普及過程を、(1)明治初年に進行した近代の宮中祭祀こおける雅楽奏演の定式化、と(2)宮中祭祀に倣って整えられた神社や教派神道の祭式に雅楽が普及する明治後期以降の状況、の2つの側面から調査した。 明治維新後に神祇官が創始した神道色の濃い新儀祭典では、神楽に代表される固有の起源をもつ国風歌舞が重視された。明治2年12月17日神祇官仮神殿での鎮座祭・鎮魂祭を契機に関西の楽人の東上が始まり、翌3年11月の雅楽局設置に至る。明治3年3月11日の神武天皇例祭から神饌奏楽も神楽歌に変更されたが、明治7年に唐楽に戻された。54年後の昭和3年、大祭の神饌奏楽はふたたび神楽歌に改められ、戦後もこの形が踏襲される。 神楽の伝習は明治6年5月27日の太政官布告によって人民一般に開放され、伊勢神宮楽員に神楽が伝授された。しかし全国の神社への普及にはほど遠く、明治8年4月に制定された「神社祭式」では、「奏楽」は一社相伝の神楽歌または奏楽なしでも妨げなしと注記された。神職に対する雅楽の組織的教育は、明治16年皇典講究所での宮内省楽師による三管(笙・篳篥・笛)伝習に始まり、明治後期には各地の神職会が主催し宮内省楽師が指導する雅楽講習会が普及していく。教派神道でも黒住教・金光教・天理教などで雅楽や雅楽に由来する吉備楽などが祭祀に導入された。このうち天理教では、明治38年に教団固有のみかぐらうたに代えて、国風歌舞風の「神の御国」を宮内省楽師に依頼して新作し、講習会を開いて教団内での普及を図った。大正・昭和期の普及状況の解明は今後の課題である。
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