本研究で言う16世紀とは、正確に1500年代のことを意味するのではなく、応仁の乱(1467-77)以降、徳川幕府がようやく安定感を示しはじめる元和年間(1615-24)頃までを漠然と指している。この時期に、わが国の文化はさまざまな側面で大きな変化をしたと考えている。美術史という視点から、そのような16世紀のあり方を多角的に考えてみたいというのが、本研究課題の出発点であった。 この時期には論文「モノを描く-16世紀における「絵画の変」(2)」で示したような、それまで絵画化の対象になっていなかったような「モノ」が描かれ、それがさらに大画面化して可視的なおもしろさを強調するようになってくるという動きは、まさにこの16世紀におこっている。このような変化の契機となったのは、これまでほとんど注目されてこなかった扇の草子や合貝の絵でもあった。そして、このような変化は、絵画の機能そのものが根本的に変わったことを示している。 論文「大徳寺大仙院檀那之間花鳥図の革新的位置-東アジア的視点から-」で指摘したような狩野元信の革新性は、絵師の側の変化であると同時に、絵画を受容する側の変化であり、さらには社会全体のおおきな変動のなかに位置づけうるものである。元信が生み出したスタイルは、以後、狩野派だけにとどまらず、画壇全体のひとつの大きな潮流となった。このことは、論文「妙顕寺蔵文殊普賢菩薩図について」で示したあり方とも共通する問題である。 そして、その狩野派を積極的に登用した織田信長、豊臣秀吉もまたみずからの権威の誇示のための絵画を利用するという点において、まさに新しい感覚で絵画を受容した。かれらの感性に沿うために、城郭建築やそこにおける装飾としての障壁画のあり方もまた変化したと言ってよいだろう。このことは、これまでの絵画史において十分に論じられているとは言えない。論文「豊臣秀吉と風俗画-京大坂図屏風(大阪歴史博物館蔵)を手がかりに-」において、その一端を示した。 16世紀を論じる切り口はまだまだ存在するが、すくなくともこの世紀の多様さをまずは指摘する必要があるだろう。
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