本年度は実査として、文観房弘真関係の史跡や資料を調査した。まず第一に、兵庫県加古川市の常楽寺五輪塔である。『瑜伽伝灯鈔』によると、文観房弘真の出自は「左大臣雅信公十三代後胤大野源大夫重真孫也」とあり、大野氏であることが記されているが、常楽寺は平岡大野という地名にあり、また、正和4年(1315)の石造五輪塔があり、『加古郡誌』によると、「文勧慈母塔、三基今安養坊の下在新井流の上」とあり、この五輪塔を文観房弘真の母親のための造立と考えているからである。さらに常楽寺から加古川を渡った対岸の平岡にある報恩寺にある石造五輪塔も実査したが、地輪に「宇都宮/正和五年八月日/長老」とある。宇都宮長老は建武二年(1335)十月に文観房弘真が一乗寺講堂供養したときの長老であり、関係が深い。よって、実査し、文観房弘真の出自を加古川の常楽寺近辺と結論づけた。 一方、文観房弘真は正平8年(1353)に『十一面観音秘法』を撰述しているが、この書は長谷寺の十一面観音菩薩像についての修法次第書である。伊勢・天照大神の本地仏であることや、金剛盤石に立つことなど、他の十一面観音の次第にはみられない特徴を有する。大覚寺に写本が伝来するので、実査した。本書は洞院実世の要請によって撰述されたものだが、洞院実世は長谷寺で没し、与喜山に葬られた。また、北畠親房の娘で、後村上天皇の中宮であった新陽明門院源顕子はこの年に長谷寺で出家しており、南朝と長谷寺は関係が深い。さらに、右手に錫杖を持つ長谷寺式観音像は奈良・伝香寺木造地蔵菩薩像内納入品や浄土寺の定証起請文に記される十一面観音など西大寺流に由縁があり、そもそも西大寺四王堂本尊が長谷寺式である。従来注目されなかったが、律宗と長谷寺式十一面観音は関係がありそうである。 さらに金剛寺・観心寺、そして南朝が朝廷を開いた、吉野、行宮とした賀名生などを巡り、地理的条件の把握などにもつとめた。 本年度は研究期間の最終年度であるので、報告書をまとめたが、西大寺蔵木造文殊菩薩騎獅像像内納入品の経典類を分類し、また、光明真言過去帳から結縁者名を分類、また、木造興正菩薩坐像像内納入品の菩薩戒結縁交名を分類するなど、基礎的研究の基本データの作成につとめた。それは種々報告書に記してある。
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