本研究では13世紀からデューラーに至るまで、独立した自画像が成立するまでの過程が、刊本彩飾画と板絵の脆拝者像、祭壇画の寄進者像および独立の肖像画を通して考察された。最初期の寄進者像は、聖母子の足下に踵拝する小さな人物として描かれ、至聖の存在との関係が希薄であった。それに大きな変化をもたらしたのが、12世紀中葉に生じた「美術作品は霊的読書を促す視覚形式である」という思想である。この思想に基づく祭壇画で守護聖人は、霊的読書によって喚起された寄進者の幻視の過程で、寄進者と聖母を結びつける仲介者の役割を演じる。積極的に聖なる世界に関与しようとする寄進者の願望はその写実的表現を昂め、それはヤン・ファン・エイクの「ヘントの祭壇画」で頂点に達する。またヤンは従来の宮廷肖像画と異なる市民肖像画を描き、近世肖像画を確立した。前者では身分と地位を示す標識が必要とされたが、後者ではその代わりに個人としての特徴を示す写実的表現が重視された。更にヤンは「ロランの聖母」で寄進者の内面と外的世界を、風景を伴った祭壇画という形で表現し、寄進者の人格を中核として、その内なる世界と外なる世界を描き分ける場面として祭壇画を用いた。ヤンの後、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンは「祈念肖像画」という、肖像画と祈念画を合わせた二連祭壇画で、寄進者の祈念する姿をクローズアップした。またディルク・バウツは「男の肖像」で、それまで無地であった座主の背景を具体的な箱形の部屋に変え、窓を側壁に設けた。デューラーが自画像を創作し得た最大の要因は、初期ネーデルランド絵画に集大成された如上の展開の精髄を吸収消化し、それを革袋としてかれの生きた時代の人間的欲求という新酒をそれに注ぎ込むことができたことにある。自己を主体的に形成する者として、画家の使命を真摯に探究したデューラーにして、初めて自画像は成立し得た。
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