本研究は日本の公-私関係を街路に設置された「看板」の言説から読み取っていた。それは英国のパブリックープライヴィト関係に象徴される欧米の関係とは大きく異なるものである。日本と欧米の公共性のあり方の相違は、市街地の景観にも表れている。その最たるものが、日本中の都市に隈なく張りめぐらされた塀の存在である。日本における塀の存在は、物理的安全にかかわる問題だけではない。塀の役割は拡大する強力な公から「私」を守るためである。明治以降は、以前にはなかった町屋にまで塀が作られるようになる。人びとも聖なる目的がつけば、公的性格をおび「世間」の名の下に、私に迫ってくる。 世間は公として「私」民を脅かす。このため日本ではどこにでも、他人の目をさえぎるために塀がつくられる。安全を掲げている公共施設どころか、公園までもが、他者を排除する塀で囲まれることすら珍しくない。公園はしばしば管理の優先する官園となっている。とくに住宅地における塀の存在は、日本の都市を狭隘なばかりでなく、見通しの悪く窮屈なものとしている。この点、住宅の周辺がオープン・スペースとなっている欧米の景観と対照的である。日本において公と私は、相補概念ではなく、対立概念となっている。しかし最近は、各種のボランティアやNPOなど新たな「公共性」の可能性を担う組織が族生している。これにともなって、官-民関係や公私関係も大きく変わろうとしている。
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