現代のドキュメンタリー・バラエティ番組は、テレビ・メディアが持っている本源的な暴力性をメディア自体がどう処理するのかという問題と向き合っている。これが、現段階における暫定的結論である。これまでのテレビは一つの番組として自らを完結させることによって、テレビがオートマチックにあらゆる情報を垂れ流してしまうという問題を隠蔽してきた。しかし咋今の衛星生中継の発達やライブカメラのインターネット上における配信の普及は、そのような覆いを取り払い、放送することの暴力性を剥き出しのものにしている。 つまり現在のテレビは視聴者に対して剥き出しの暴力性を発揮している。 ドキュメンタリー・バラエティ番組とは、このメディアの視聴者に向けられた暴力性を出演者への演出レベルにおいて再現するものだといえよう。タレントも素人も、ただそれがテレビなのだからという理由だけで、自分のプライバシーを暴かれたり、涙する惨めな姿をさらしたり、身体測定したり、といった様々な苦行に身をさらしているだろう。それはまさに、テレビがそのような暴力的なメディアであることを、テレビ自体が批評的に示そうとする試みなのだ。そしてそれはベンヤミンがいうように、カメラという機械の前で演技する俳優たちが抱え込んでいた問題だった。 この批評的な試みが、ただの暴力として終わってしまうのか、それともある種の肯定的な感情を再びメディアにもたらそうとするための実験段階なのか。 それを私はもう少し考えようと思う。
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