本研究では戦後から1950年代半ばまでに作成された個別のカリキュラム・プランや学習指導案の分析によってカリキュラム編成における音楽の組織化の実際を明らかにし、小学校の音楽教育実践の全体像を構築するための素描を試みた。 その際分析の視点として政策理念・思想と実践との関係性、戦時期と戦後の連続性、非連続性、音楽活動のカリキュラム全体の中での位置づけを問うことを設定した。また具体的には情操教育が政策と実践、戦時期と戦後の中でどのように論じられているのかその内実を解明すること、実際の授業において個人の表現と集団の表現の意味が「情操の陶冶」という目標といかに結びついて論じられているかを解明することを分析の課題とした。 明石プラン、新潟プラン、吉城プランなどのコアカリキュラム・プランと京都市や和歌山県の教科カリキュラム・プランなど、個別の事例の検討を進めた結果、1950年前後には劇活動や調べ学習等を取り入れた新しい統合的な学習が試みられていたものの、1950年半ばには衰退し、楽曲の再表現活動が主流となっていったことが明らかであった。 1950年前後に生起した萌芽的実践は個人の表現を尊重し、「自主的な協力」によって集団的表現を実現していく過程を重視したものとして重要であり、戦後の音楽教育実践の発展期と位置づけることができる。それは個人が審美的な価値を求め、社会との関係の中で獲得していく美的情操とその具体としての集団的表現であり、国民学校期の個人を超えた皇国民の集団統合によって獲得しようとする国民的情操と具体としての集団的表現とは根本的に異なる原理をもっていた。ただし、音程や発声の「正しさ」といった音楽的表現の追求を直接の目標とする授業実践ではその違いは曖昧であり、目的理念不在のまま、1950半以降には読譜や発声指導の重点化によって音楽技能優先の集団的表現が主流となり、1960年頃までに定形化されていったことが明らかであった。
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