今年度は壱岐・対馬での漁村ないし半農半漁村の調査を実施した。25年近い年月を経ての今回の再訪の調査行では、その地域の変貌ぶりに強く印象づけられた。本研究課題は日本の各地に根付いてきた習俗としての「けがれ観念」を再検討することであるが、再訪によって時間的変化による比較が可能になった。この25年間の漁業をとりまく環境変化は予想以上に大きかった。壱岐の勝本浦を事例に、今年度の調査活動の成果の一端を記したい。近年の海洋環境破壊の変容、破壊により従来の漁業基盤の不安定化という新たなリスクが生じていて、これは後継者問題を引き超し漁業共同体の弱体化につながる。また、それは1970年代には進展した近代化現象に、漁船の機械化、効率化による漁業の安全化、個人化がある。こうした漁業の労働環境変化は、海という大自然と向き合う危険を基底にした共同性・地域牲の高い近海漁業に対応して発達させてきた習俗をも変化させてきた。 この変化の観察からこれまでのけがれ観念の議論を再考することがかえって可能になる。地域社会の繁栄のために相互共同の絆を構築する必要性が減じることは、共同性維持の役割を担ってきた習俗的な知恵も消滅の方向に導く。けがれ観念もこの事態と無縁ではあり得ない。従来この地域のけがれ観念は、妊娠、出産、月経、死亡に関して報告されてきたが、今回の調査で、1)妊娠、出産のけがれへの意識がきわめて稀薄になってきていること、2)月経のけがれは認識ははっきりしているが、生産、生活への否定的影響はほとんど言われないこと、3)死のけがれ(ヒヲカラウ)はなおも明瞭に存在しているが、それへの対応に個人差が増大していること、などが認められた。また、「エベッサン(エビス様)」と呼ばれる海で行き会う漂流死体の扱いをめぐる習俗(引き上げ丁重に埋葬すると豊漁を呼ぶ)は現在も生きているし、話題にれ続けていること、不漁続きの漁民が祈祷獅に依存している事実、などがわかった。このような現地調査の結果は、日本民俗学で論じられているこれまでの平板なけがれ論に関して、一定の修正を示唆できる。すなわち、けがれ観念は、社会的タブーの次元と、個人化してもなお語る必要がある生ある人間の次元との立体構造の中で理解される必要がある。安全性の増大と個人化(仲間の他者への気遣いの不要>が、死という制御できない基底的極限事象に伴うけがれ観念のみを習俗として存続機能せしめている方向に進めている。こうして、従来の儀礼観察だけから導かれる議論において捨象されてきた観点、つまり社会のあり方(生業における共同性や危険性、社会階層性の有無、新たなリスク社会の到来など)との関係性の中でけがれ観念は生起していることが明確化し、今後の重要な検討項目が明らかになった。
|