前年につづき、在地領主と地方寺社との関係を究明することを目的にして、現地調査・資料調査を実施した。西国では、豊後宇佐八幡社の建久年間の造営とその費用賦課台帳と九州諸国大田文との関係から、諸国在庁の政治的役割が注目される。また播磨一宮伊和神社への国司新田義貞の関与も、在庁を媒介にしていた。尾張真清田神社の祭礼も国司の支援を背景にしていて、国司・在庁が重要である。東国では、上野国板鼻八幡は守護所に近接し、上杉氏の関与が見られる。上杉氏は南北朝期には上野国国衙支配権を獲得していて、板鼻八幡への関与をつよめた。いっぽう、山名八幡は板鼻八幡にちかいが、南北朝以降、京都を本拠とするようになった山名氏が関与を継続し、神主職を任命している。板鼻八幡と山名八幡は、近辺に所在しながら、その存在形態には偏差がある。 戦国期になると、高野山僧が全国を廻り、死者供養をしながら供養料を集めている。その帳面としては清浄心院のものが紹介されているが、今年度はじめて信州佐久・小県を檀那場とする高野山蓮華定院の史料を調査した。その供養帳と書状のありかたから、真田氏・家臣と蓮華定院僧の密接な師檀関係形成の過程がうかがわれるが、具体的検討・吟味はこれからの作業となる。
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