在地領主を政治史として扱いには、地域社会にたいする政治的影響を究明するのが妥当である。下野宇都宮氏は、鎌倉期前期には宇都宮社の祭礼全体を改変し、神宮寺・供僧を通じて祭礼・法会を編成し、そこに一族だけでなく武士や住人をも参加させ、負担を課すようになる。この過程は法楽歌会をも盛んにし、地域寺社の僧・神官をも参加せ、これが宇都宮氏の地域支配の一形態となっていく。こうしたありかたは、塩谷氏・那須氏にも見られる。また足利氏とばん阿寺との関係、新田氏と長楽寺との関係も、この変形で理解できる。在地領主は自領を越えたネット・ワークを寺社祭礼・法会を媒介に形成していたのである。 南北朝期には、下野宇都宮氏や越後上杉氏は、室町幕府の進める禅林政策を受け入れる形で、禅宗寺院を積極的に建立し、従来の地域寺院を禅僧主体に変えていく。宇都宮氏では、足利氏支持を明確にした氏綱が宇都宮に興禅寺を立てただけでなく、周辺部での他氏の禅寺造立を支援している。新田氏でも長楽寺が十刹寺院化した。こうした傾向は各国守護が推進したが、在地領主も幕府・守護と結びつつ展開したのである。 戦国期には、地方領主の法会は、一族全体をまとめるものとして、また他氏を併合する行事として、開催された。下野皆川氏では一族の当主が不安定な時期には分家筋長老が施主となり、導師には高野山清浄心院の僧をむかえておこなわれた。また越後上杉氏では、当主争いの勝利した景勝が、高野山での謙信供養を行うことにより、謙信以来の家臣を家中化している。さらに下野大田原氏は合戦により大関氏家督を奪ったが、大関氏の先祖供養を、高野山清浄心院僧を導師に、挙行している。これらのことは、戦国領主の権力継承・強化が、前権力者の霊を供養することを要件の一つにしていることを示している。また高野山僧は、この時期、関東だけでなく、奥州の伊達・南部・秋田などの諸大名にも入り込んでいて、辺境政治権力を支える力となっている。
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