近世の宇治・山田社会に特有な社会観念たる触穢意識について昨年度に引き続き分析を進め、特に死の禁忌について検討を加えた。主として神宮文庫所蔵の「神宮編年記」(神宮長官日記)、「大神宮故事類纂」、伊勢市立図書館架蔵「宇治山田市史史料」を用い、国会図書館、内閣文庫で収集した史料も参考とした。得られた知見は以下の通り。 神社領として死穢を強く忌む宇治・山田においては、作法通りに死体を扱わないと市中一体の触穢となり、住民に様々な規制が加えられた。だがこの制度は都市生活を送る上で障害となり、また参宮客の神宮立入も制限される。山田奉行や三方・会合の意向などを契機に、次第に触穢の適用事例は減少していく。背景には、一八世紀初頭を画期として触穢の発生を避ける作法が様々に発達したことがあった。だが、神官内部では触穢の厳密な適用を主張する勢力もあり、判定をめぐる争論がしばしば発生した。その際に世間の評判・風説、つまり神官や宇治・山田社会が外界からどう見られるのかが大きな問題となっている。 死者を送る儀式として前近代の宇治・山田では、建前上は死んでいないとして墓に送る「速懸」という作法がとられた。これを行わないと市中一体の触穢となるのである。だが速懸は本来の神社の触穢体系に反して、死穢の規定を逃れるために用いられるようになったものである。そのあり様は一八世紀初頭頃に変容し、宇治・山田住民たちの意識の上では実質的な葬儀となっていく。なお、この速懸を実施するためには、死の穢れを引き受ける人間を必要とした。当初は死者の家来らが務めたが、次第に宇治・山田の被差別民が専ら引き受けるようになっていくのである。神宮特有の触穢観念は、速懸を含めて明治初年の神宮改革のなかで否定される。だがそれは近代以降に重要な刻印を与えた。
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