1 従来の私が進めてきた近代日本の君主制研究の国際比較の面を補うべく、イギリス・ドイツ・オーストリアとの比較の観点から、近代日本の議会制の発展と立憲君主制の形成を考察した。その結果、近代日本はドイツ・オーストリアのような君主権の強い憲法を作ったが、政党政治が崩壊する1932年5月までの実際の国家運営では、君主の政治関与は原則的に調停的であり、帝国議会の権限も伸張したことが明らかになった。このように日本の君主の政治関与がドイツ・オーストリアに比べ抑制されていたのは、(1)近世社会において天皇は政治関与ができず、将軍や大名の政治関与も通例は限定される伝統があったこと、(2)憲法導入期の日本には、ドイツ・オーストリアのような民族・宗教・地域対立が激しくなかったこと、(3)日本は、ドイツのように地域上からのイギリスヘの反発がなく、オーストリアのように1848年革命への反発からくる強い保守主義がなく、イギリス政治をモデルにする思想が20世紀に入ると主流となっていったこと等からであること。 2 従来の私の研究の延長で、満州事変直前の立憲君主制の空洞化について考察した結果、(1)昭和天皇は首相の推薦した閣僚を直ちに裁可しなかったり、人事に関与したりし、従来の慣行にない行動をとり、政党政治を維持したいという意図に反して、首相権限を弱め、天皇や首相の軍部へのコントロールを弱めることになったこと、(2)田中内閣以来の牧野内大臣ら宮中側近の台頭の流れの延長で、宮中側近の影響力が強まったこと、(3)それに反発し、軍部・国粋主義者等は宮中側近の昭和天皇への輔弼に問題があるとみ、「公平」な君主としての昭和天皇の正統性も動揺してきたこと等を明らかにし、満州事変への道を示した。
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