1 従来から私が進めてきた近代日本の君主制研究の植民地とのかかわりの面を補うべく、韓国併合前から三・一運動までのまでの、日本帝国による韓国皇帝・皇族等の包摂の問題を考察した。その中で、(1)初代の韓国統監である伊藤博文は、韓国を名目上の独立国とし、日本が実権を握り、明治維新をモデルにした改革を進め、教育や産業の振興を図り、日本の事実上の植民地である韓国に対する財政負担を少なくしようとする一方で、保護国の統治者として朝鮮での多様な価値観を尊重する比較的開放的姿勢で韓国に接し、日本人と朝鮮人が融合することを目指した。(2)しかし、伊藤の暗殺もあり、韓国併合後、山県有朋ら山県系官僚閥に朝鮮総総督府や宮内省は支配され、旧韓国皇帝ら皇族は日本から王公族の称号を与えられるが、王公族の地位に関して体系的な法令がないまま、伊藤博文や明治天皇の意思に比べ、王公族の地位を低く扱った。(3)山県らの上記の姿勢で、王公族の国法上の地位を定める王公族軌範は成立せず、1910年代後半に山県らは朝鮮の独立運動が静穏になったと錯覚し、日本・日本人に対して朝鮮・朝鮮人をさらに低く扱おうとする高圧的姿勢を取ったこと等を明らかにした。 2 従来の私の研究を、明治維新から第二次世界大戦の敗戦後にまで拡大し、編著『二〇世紀日本の天皇と君主制』で11人の執筆者によって、近代のイギリスや朝鮮の君主制と日本の君主制の比較を視野に入れながら、天皇を君主とする近代日本の実態を、君主をめぐる政治や制度・思想などを交え再検対した。私自身は、「昭和天皇と立憲君主制」(本書の92-128頁)を担当し、近代日本の政治慣行の中での、昭和天星の意思を厳密に検討し、天皇の対応や宮中側近の助言のまずさから、軍部を統制できなくなっていくという問題を考察した。
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