研究概要 |
本研究では第一に、睦仁(明治天皇)・嘉仁(大正天皇)・裕仁(昭和天皇)の個性や時代状況に影響されながら、一九二〇年代後半までに、日本は立憲国家を確立させ、政党政治を形成し、イギリスより一歩遅れながらも、イギリスと類似した立憲君主制を発達させていったことを明らかにした。 第二に、一九三一年の満州事変から一九三二年の犬養毅内閣の倒閣に至るなかで、日本の立憲君主制(政党政治)が崩壊していった重要な要因の一つは、厳しい時代に直面した中での、とりわけ陸海軍に対する、昭和天皇の揺れる政治指導にあったことを論証した。 第三に、このような昭和初期の危機にあって、唯一の元老となった西園寺公望の判断は、最も妥当であったことを提示した。西園寺は、幕末から明治・大正・昭和と激動の時代を生き抜き、円熟したバランスの良い見識を示していた。しかし昭和天皇は,高齢で身近にいない西園寺よりも、西園寺より一三歳若い牧野伸顕内大臣の性急すぎる助言を重視した。 第四に、天皇(その代理としての皇太子)や皇族のイメージについて、主に『東京日日新聞』を中心に一九二一年から三二年までを系統的に検討し、天皇をめぐる政治権力や正当性と関連させて考察した。その結果、(一)第一次世界大戦後のデモクラシー潮流の中で、宮内当局や政府は、病身の大正天皇に代わり、皇太子裕仁やその弟の秩父宮など皇族に、「平民」的で、「健康」的であり、科学にも理解を示すイメージを形成しようとしたこと、(二)しかし、一九二〇年代半ばにかけて、秩父宮はそうしたイメージ形成に成功したが、肝心の皇太子は中途半端に終ったこと、(三)天皇となった裕仁が公式行事に原則として大元帥の軍服を着て登場するのは浜口内閣以降であること、(四)満州事変以降、天皇は常に白い馬に乗って登場するなど神秘的イメージを示すが、政治のコントロールに失敗したこと等を明らかにした。
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