江戸時代から明治維新期にかけて活動していた阿波の在村儒学者・国学者たちの古代・中世地域史研究にかかわる自筆文献を基礎に、吉野川下流域南岸に広がる名方郡域の古代から中世にかけての郡・郷域変動について、同じく吉野川下流域南岸になたる麻植郡における忌部神社所在地論争について、調査・分析を実施した。取り上げたのは、多田直清「村邑見聞言上記」、後藤尚豊「阿波国名東郡郷名略考」、上田寧悳「名方郡産土神郷名考」、久富憲明「麻植郡風土記」、さらには小杉榲邨、野口年長などである。 名方郡域は、寛平八年には名西・名東両郡に分かれるが、さらに十一世紀から十二世紀にかけての時点で、両郡の中間に以西郡が新たに設定される、かつその以西郡の領域も後に変動するようである。しかし、文献史料の少なさのために、この郡域変動の複雑な過程には解明されていない部分が多い。しかし、上記研究者らの埋もれた研究成果に光を当てることで、あきらかになる事項が多い。これら研究者は条里・余剰帯・地割などという近代学術用語に対応する直線道・古官道・見通しなどという用語を用いながら、条里設定のあり方とその特質、あるいは郡域の変遷などについて、現在でも十分に批判にたえうる優れた論を展開している。また、麻植郡域について、明治初期に起こった当郡鎮座の忌部神社所在地にかかわる論争には上記研究者をふくめた多くの在村研究者が参加している。そこでは古代および中世における忌部氏および忌部郷について、優れた論点が多く提出されているが、それ以降の徳島地域史研究ではそれらは生かしきれていない。この論争についての再整理をおこない、論点を明確にしながら、今後の研究の基礎作りをおこなった。
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