今年度は、一条氏の文書を有する寺社の調査と一条氏関連の城郭跡の踏査を実施した。前者は、足摺岬の金剛福寺文書・有岡の真静寺文書・幡多郷土資料館寄託の不破八幡宮文書の調査が中心であった。これらによって数点の新出文書を確認し、周知の史料と合わせることによって、戦国期一条氏の在地支配が鎌倉期以来の家司の子孫源康政らによって取り仕切られていたことなど、その内実が明らかとなってきた。 後者は、一条氏の外戚となった加久見氏の本城加久見城跡とその城下に残る石塔群、幡多郡の有力国衆である布氏の本拠布城跡、同じく平田布城跡の調査が中心であった。加久見氏は、土佐に下向した一条教房が最も重視した土佐国衆であり、本城に隣接して加久見新城を築き、二つの城の城下部分に居館・家臣団屋敷や菩提寺などを配置していたことが明らかとなった。この二つの加久見城は、三崎村から清水村にかけての津々の掌握に絶好の条件を有しており、加久見氏が水軍の頭目であったことを雄弁に物語っている。加久見氏の経済力は、城下の香仏寺の巨大な五輪塔をはじめとする石塔群の存在からも窺える。 一方、布氏は太平洋に臨む幡多郡布村を本拠とし、布津を見下ろす位置に布城を築いていたが、教房以降、平田郷に知行を与えられ、ここにも新たに壮大な布城を築いていたことが判明した。平田は宿毛湾と中村とを結ぶ交通上の要衝に位置しており、一条氏が水軍と見られる布氏を掌握し、これを流通・交通の拠点に配置していたことが明らかとなった。 以上、今年度の調査の結果、一条氏の在地支配の内実、水軍や流通との関わりが具体的に見えはじめてきた。次年度は、今年度と同様な調査を継続的に行うとともに、幡多郡出土の貿易陶磁器・国産陶器の修正作業を進め、一条氏の対外交易の具体像に迫りたい。
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