研究課題/領域番号 |
14510385
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研究機関 | 京都大学 |
研究代表者 |
松浦 茂 京都大学, 総合人間学部, 教授 (60145448)
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研究分担者 |
長部 悦弘 琉球大学, 法文学部, 教授 (80253938)
山本 光朗 北海道教育大学, 教育学部・旭川校, 教授 (90166827)
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キーワード | 奴兒干都司 / 永寧寺 / 辺民 / サハリンアイヌ / ホジホン / ホマンの地図 / 北京会議 / サンタン交易 |
研究概要 |
1.アムール川下流・サハリン地方に関して、世界における研究文献目録を作成する計画をもつが、本年度は手始めに韓国の文献目録を作成した。全部で130項目になった。 2.(1)研究代表者は、18世紀前半に清の行なったサハリン中・南部進出について研究を行なった。それによると、1727年(雍正5)前半に清とロシアの両国が、北京で開催した会議の席上で、ロシアがホマンの地図(1725)を提出したことが、きっかけであった。その地図には幻の土地エゾを、カムチャツカ半島の先端に置いていたが、清はエゾを領土の一部とみなして、大陸の近くに存在すると想像していた。清は、ロシアの地図に衝撃を受けて、未知の土地であったサハリン南部の調査に乗り出した。その結果、1732年には清の勢力は南端まで達して、アイヌの大多数を辺民に組織した。以上が、明らかとなった。 (2)研究代表者はまた、18世紀後半におけるサハリンアイヌとアムール下流の商人との交易に関して、研究を行なった。それによると、1732年に清がサハリンアイヌを辺民に組織したあと、アムール下流から有力な商人たちが、毛皮と中国の繊維製品などと交換するために、しばしばアイヌのもとを訪れるようになった。かれらは毛皮を清に持ち込んで、大きな利益をえていた。当時交易の中心は、東海岸のアイヌであったが、1742年にキジで殺人事件が起こり、東海岸のアイヌが殺害されてからは、東海岸のアイヌは清から離反し、両者の交易は衰えた。それからはアムール商人と西海岸のアイヌとの取り引きが盛大となり、その状況は19世紀の半ばまで続いた。以上が、明らかとなった。 3.研究分担者は、15世紀初めに永楽帝がアムール河口に置いた奴児干都司および永寧寺碑文について、その研究史、碑文の翻訳、それについて記した東西の文献史料の翻訳などを行なった。科研の報告書に掲載する予定である。
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