八世紀半ば以後の二百年、中国は大きな変革期を迎える。それが終り、960年創始されて三百に及ぶ宋王朝は、唐代までとは、政治・社会・経済などあらゆる面で違いができた。世襲的・封鎖的・静的な世界は、競合的・解放的・動的な社会に変貌した。法制の面では、それは律令から勅令への移行と説明されるが、それに伴い、王朝権力の司法官制機構にも著しい変化が現れる。本研究はこうした新しい宋朝の司法行政の全体像を、実証的・総合的に究明している。まず全体を地方と中央に区分する。前者では、権力と民衆の接点である「県」に始まり、「州・府」そして宋代特有の監督区分「路」に至る、司法官制の詳細を、従来にない精密さで明らかにした。千三百の県では、刑事事件の逮捕、捕盗から訊八世紀問、裁判、或は民事告訴の実体などが取り上げられる。県の上位の、三百を数える行政区画州・府では、司法官員の数も増加し、訊問と法規検討が分離され、死刑もここで執行できる。その上にある15〜25の大区画「路」では、監司と総称される、皇帝と直接繋がる監察官が置かれ、特にその中の提点刑獄司が、あらゆる地方の司法行政に目を光らせる。一方中央では、時期による相違はあるが、刑部が司法行政の主導的位置にあり、大理寺あるいは審刑院が、高等裁判所の役割を果たした。官僚制度力弐広汎に発達した宋代には、行政・財政の複雑化とともに、各種官員の違法行為が激増する。このため御史臺が主管する特別法廷や、皇帝自らが監督する「詔獄」などの特別裁判が臨機に開かれる。また百万都市である国都開封と臨安の司法官制は、他の地方と違った性格も与えられていた。そうした全貌の究明が、本研究でなされている。
|