研究課題
基盤研究(C)
本研究は、1917年の十月革命に反対して内戦に参加し、のちにハルビンに亡命したロシア知識人のソヴィエト・ロシアに対する政治的態度の転換過程をあとづけ、彼らによるソヴィエト権力承認とソ連体制への協力がソ連の一国社会主義体制の形成過程に及ぼした影響とその歴史的意義を、同時代の文献資料に基づいて実証的に明らかにすること、およびハルビンに亡命したロシア人社会が同時代の東アジアにおいていかなる歴史的を有したかを明らかにすること、を目的とした。本研究では、こうした知識人の代表としてN・ウストリャーロフを取り上げた。ウストリャーロフは、スラブ派および『道標』派というロシアの知的伝統から出発しながらも、亡命地からソヴィエト・ロシアの現実の行動を率直に評価しそれを肯定することを通じて、ロシア・インテリゲンツィヤの伝統的国家観とボリシェヴィキの国家建設とを総合しようとした。彼はこの立場を「ナショナル・ボリシェヴィズム」と名づけて、1920年代から30年代前半にかけてこの思想を展開していった。ソヴィエト・ロシア当局は、ウストリャーロフの言説に一定の注意をむけ続けていた。ウストリャーロフはまた高等経済法科学校(のちのハルビン法科大学)を設立して、在外ロシアでロシアの知的伝統を継承する活動を展開した。これと並んで理工系高等教育機関である露中技術専門学校(のちのハルビン工業大学)も、在外ロシア青年のみならず中国人青年に対してもロシア式高等教育を教授した。これらの高等教育機関は、異郷の地においてロシア文化を維持し継承することを可能にした。ここでの最大の特徴は、ソ連系教員と亡命系教員とが共存し、両者の間で一定の知的交流が維持されていたことであった。このことは、ハルビンのロシア人社会が、ソ連とも他のヨーロッパ諸国の亡命センターとも異なった独自の知的世界を形成することを可能にしたと考えられる。
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すべて 雑誌論文 (10件)
人文学報(東京都立大学) 第357号
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ロシア史研究 第74号
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ロシアの中のアジア/アジアの中のロシア(I)(北海道大学21世紀COEプログラム「スラブ・ユーラシア学の構築」研究報告集) 第3集
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Asia in Russia/Russia in Asia (I) (21^<st> Century COE Program Occasional Papers no.3, Hokkaido Univ.)
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思想 第953号
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Shiso no.952
Shiso no.953