クリュニー修道院が支配領域に関する永続的な支配権を確立するために、教皇、国王、在地の有力者からどのように保護を受けていたのかについて、近年刊行された史料や研究を分析し、考察を進めた。まずは昨年度まで作業を進めていた12世紀の修道院長ペトルス・ウエネラビリスのDe Miraculisの分析を終了し、その結果をソウルの高麗大学校でCluny and Secular Society in the Twelfth Centuryと題して報告した(8月31日)。物語史料に分類されるこのデータから読み取れたものは、クリュニー修道院が自らを「聖域」とし、これを聖俗の有力者に対して宣伝し、宗教的行為(死後の魂のための祈祷、俗人の修道院墓地への埋葬、告解や悪魔祓いなどの儀式、贖罪者の受け入れ)を社会に対して行うのと引き換えに自らの領域支配とその地位を確立しようとしたことである。さらに次の段階として、別種の史料すなわち証書、修道院規約、外部有力者から発給された特許状などの分析に移った。クリュニー修道院が教皇、国王などから発給を受けた特許状は数多く、その刊行もすすんでいるが、その分析はなお途上であり、とくに領域を聖域として特権化し、典礼や巡礼とからめて外部の有力者に納得させていった方向については、いまだ未開拓の部分が多いことがわかった。そこで同種の史料の刊行や研究の拠点である、ドイツのミュンスター大学初期中世研究所を直接訪問し、当該分野の権威であるFranz Neiske、Maria Hillebrandtと意見交換を行い、今後の研究協力について確認した。なおフランスのDominique Iogna-Prat氏との意見交換を通して、特に遅れている修道院規約の分析の有益性、とくにクリュニー修道院本院およびベルゼ・ラ・ヴィルなどデカニアと呼ばれる付属施設の墓地、隠遁地、巡礼地が、地域社会における聖域としての機能を果たすポイントとなっている予測を得た。
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