研究概要 |
1990年代から、11,12世紀の地域社会の理解に新たな理解をうるために、修道院など教会組織と世俗領主との関係を考察しなおす作業がさかんに行なわれるようになった。中世初期に最大規模を誇ったクリュニー修道院と近隣社会の関係についても、フランス、ドイツ、アメリカの研究者によって新たな理解が次々と提供されるようになった。本研究は、上記の研究動向を踏まえて、現地の研究者と連絡を取りながら、クリュニー修道院が近隣の領主や司教と紛争と和解をくりかえしながら、自らの所領を聖域として確立していった過程を考察したものである。クリュニー修道院に関する研究は、修道院改革運動や改革教皇権への貢献といった教会史的考察と、所領経営と城主支配権の確立において理解する社会経済史的考察のもとに進められてきたが、これらを分かつことなく総合的な理解を得ることを目差し、前者が主に用いている聖人伝や奇跡録のような記述史料と後者が主に用いている証書史料の双方を用いて、11世紀のオディロ修道院長期から12世紀の尊者ピエール修道院長期までに、近隣社会がクリュニー修道院に対して行なった寄進や寄進契約をめぐる紛争の実態を再検証するとともに、修道院が自らを聖域として理念的のみならず実社会においてどのように確立したことについて、その時期、方法、効果について実証することを試みた。記述史料、証書史料ともに史料刊行が遅れているために、ミュンスター大学の初期中世研究所、オーセール大学の中世研究センター、イオニャ・プラ教授、メユー教授から情報を得て、できうる限りの作業を行なった。その結果、クリュニー修道院の主要な宗教活動である修道院儀礼(祈・、典礼、葬儀、祝福、秘蹟、救貧、行列)が、社会的、経済的に重要な役割を果していたことがわかり、墓地や礼拝堂などの教会設備が世俗社会と修道院の接点であり、このような設備が聖域確立の拠点であったことが理解された。そして11世紀なかばからはじまったクリュニー修道院の集中的な文書作成事業、すなわち証書集、修道院法規、修道院創立史、修道院長伝の作成などは、修道院の世俗社会に対する優位を確立するために効果的であり、これをクリュニー出身の教皇ウルバヌス2世をはじめとして、改革教皇が支持することで、クリュニーの聖域が確立していった。
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