中国の漢代から三国・南北朝時代には多くの明器が墳墓に副葬された。これらは、生活にかかわる諸用具と人物、動物などの泥象があり、古墳時代の形象埴輪と共通したものが多く含まれている。中国の明器は陶屋、倉庫、竈、井戸が初期に副葬され、さらに楼閣建物、家畜小屋、農具、船、車などにおよんでいる。その背景には神仙思想があり、神仙的世界で飲食し、生活することを想定したことがうかがえる。 一方、日本の古墳に配置された形象埴輪は、家形埴輪が早く出現し、この家形埴輪の周辺に、威儀具の衣蓋や椅子、武器、武具の盾・靭、短甲、大刀、囲形埴輪などが配置された。そして、その背景には、古墳に埋葬された首長が黄泉の世界で、現世と同様の生活を行うことを想定することによって、境丘に配列されたものと推測される。明器と共通点の多い形象埴輪の成立には、中国の三国から南北朝時代にかけて、中国への通交があり、これによって中国の習俗が導入されたものと思われる。しかも大和王権の中枢部によって意義づけられ、各地の首長によって採用されることになったものとみなされる。しかし、中国では墳墓内部に、日本では古墳の境丘に配される方向で志向されたことから、大きな差異が生まれることになった。このように理解する根拠の一つを、近年に資料が増加している囲形埴輪の検討作業を行って検討し、その成果をうることができた。
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