本研究は、4年計画で、日本漢字音史から梵字音史を切り離して、独立した歴史研究を構築するための基礎的研究を行おうとしたものである。 4年間に各寺院の調査で収集調査できた梵字文献は大凡700点に及ぶ。これらの文献は平安初期から江戸時代に及び、中でも平安時代のものが質料とも最も充実している。このことは、平安時代に其の学問的な営為が最も充実し盛んであったことを反映する。 これらの梵字文献のあり方としては、梵字だけで表記されたもの、梵字と漢訳字が併書されたもの、漢訳字のみのものに分類される。梵字だけで表記されたものの加点の様相は、平安初期から中期にかけては、梵語音韻学-悉曇学-の確かな素養に裏打ちされ読誦されていた痕跡が確認される。その源流は天台宗の慈覚大師円仁(794〜864)に帰すが、その後円仁の孫弟子に相当する安然によって理論的に日本悉曇学として体系化され、天台宗を中心に真言宗にも本格的な梵語の音読が継承されたようであるが、実際の梵字文献を分析すると、安然(841〜905)、石山寺淳祐(890〜954)、仁海(951〜1046)の辺までしか梵語原音の学習は行われず、その後は、音訳漢字乃至片仮名による和化した梵語音の読誦へと移行してしまったと考えられる。この平安初期から中期初頭における梵語原音の学習は日本語に大きな影響を与えることとなった。 このような、我が国の梵字音韻学の基礎は、中国に渡り10年間彼の地で本格的な密教の修得に努めた円仁によって将来されたものである。其の修学の軌跡は彼の著『入唐求法巡礼行記』に詳細であるが、その記録を読み解くと、彼の修学の主目的が密教修法に織り込まれる梵唄(梵語の声明)に有ったことが伺える。我が国に悉曇学がもたらされ研究の対象とされたのは精確な梵語音に基づくその声明の伝承にあったと見ることが可能になる。従ってそこでは日本語音韻に存在しない清濁の区別、有気・無気音の区別、直音・拗音の区別等が意識され、其の表記法の工夫も行われて日本語表記体系の発達があった。五十音図の成立の基盤も又悉曇学にあったことは疑えない。 以上のように、日本語と梵語音との交渉は、日本語と漢字音の交渉に劣らず日本語の音韻体系と日本語の表記体系の上に大きな影響を与えていたことが確認できる。それらの詳細については別記研究業績に逐次公表してきた。
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