研究最終年度である本年度(17年度)は、本研究の成果を問う『広津柳浪の怪物-日本近代文学における「悲惨」の誕生』(書き下ろし、2006年中の刊行予定)の具体的な構成をたて、いくつかの章のためのメモをすることに費やされた。とりわけ考察を深めたのは、総論にあたる「『怪物』の出現はなにを意味するか」である。この考察を、勤務校である早稲田大学(文学部)で後期9月からの半期講義で「怪物について」と題し15回にわたって話した。以下はその概要である。感情の怪物から政治そして「戦争」(内戦)の怪物までをとらえたヴィクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』からはいって、近代の怪物論(フランケンシュタインの怪物・ドラキュラ・ジーキル博士とハイド氏・「モロー博士の島」の怪物たちなど)を検討する。さらに、広津柳浪や江戸川乱歩のフリークスや宮沢賢治の愉快な怪物など、日本的近代におけるさまざまな怪物をながめたうえで、現在におけるもっとも巨大な「怪物」表象ともいうべき戦争を、セルビア映画『ボスニア』(スルジャン・ドラゴエヴィッチ監督)の分析からとらえる。ときにはアルチュセールやフーコーやデリダ、そしてマルクスの「悪しき主体」「怪物」「亡霊」「妖怪」へのまなざしをからめ-「怪物があらわれた、怪物を殺せ」ではなく、「怪物があらわれた、人間が変われ」という見方を堅持しつつ。「怪物」は、同時代を生きる者に、その自然とみなされる秩序を疑い、変更をうながす(以上概要)。また、11月に上演された現代演劇『妖精たちの砦』(福田善之作・演出 木山事務所)を観て、出現する「怪物」のひとつとして「妖精」が視野に入ってきた。これについては「戦争に抗う明るく無邪気で残酷なファンタジー」(「週刊金曜日」12月23日号)に書いた。4年間の研究の成果を、まずは「研究成果報告書」にまとめ、さらに『広津柳浪の怪物』にしたい。
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