日本人が、何をどのように学んできたか、どんな文章を規範とし、どんな知識内容を必須のものと考えてきたかについての研究である。往来物は、時代によって、所属する社会、階層、性別等によって異なるであろう諸々の常識・知識・教養の典型を示す。実用性と文学性の程良い融合の中に折り合いをつけたその文章は、現代日本の文章規範の原型でもある。 平安時代から南北朝・室町にかけての400年ほどを視野に入れて、古往来の成立をとらえ、制作者と読者(学習者)の双方を含み込む社会を「成立文化圏」と名付けた。対象としたのは、古往来成立の場が寺院文化圏から武家文化圏へ移行していく過渡期の作品、『異制庭訓往来』と『新札往来』である。制作者は僧である場合が多いが、主たる学習者は武家の子弟と見られ、内容は、新たな支配層として台頭してきた「武士の教養」である。武家文化圏の古往来と位置づける所以である。 寺院文化圏の作品の一つ『新撰遊覚往来』については平成9-11年度の研究成果報告書に収めたところであるが、『異制庭訓往来』はこれと密接する内容を持つ。両者の関係を明らかにすれば、寺院文化圏と武家文化圏の質の違いを明確にすることができると考え、まず本文確定のために、伝本の収集と整理に努めた。次に、作品全体の構成と一通毎の書状の構成を整理した。その上で、話題ごとに『新撰遊覚往来』との対応関係を調査し、「かさなり」と「ずれ」を計るよう努めた。その結果、「かさなり」の部分には伝統的な公家文化が受継がれており、「ずれ」の部分に武家らしい力への信頼が謳われていることが明確になった。 『新札往来』は成立年代と制作者が分かるという点で極めて貴重な作品である。制作の背景から内容の真意をあぶり出すことができる。作者の素眼は時宗金蓮寺の僧であり、連歌師としてまた書家としての活動がある。彼の生きた文化圏の中に作品を位置づけることにより、単なる雑多な語句集団とする従来の皮相的な見方を脱し、必然的なまとまりを持つ一作品として解釈できることを示した。
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