中国の文学において、「友情」が重要なテーマの一つであるという指摘は、早くからされてきた。質量いずれにおいても「友情」の文学が豊かであることは、恋愛文学の不毛と表裏をなすものであるとも言われてきた。その問題を改めて取り上げ、中国の文学に本当に恋愛の文学は乏しいのか、友情の文学は多いのか、またそうであるとしたら、なぜそのような性格がもたらされたのか、そのことは中国の文学のどのような特質を明らかにするものなのか、そういったことを探求するのが、本研究の目的である。 これまで明らかにしえたのは、恋愛文学が他の文化圏の文学に比して少ないのは確かであるが、それは士大夫の正統的詩文に限ってのことであり、いわゆる俗文学まで視野に入れれば、古今東西の文学と同じく、文学の中心を成しているといわねばならないこと、そのような事態をもたらしたのは士大夫の精神を形作っている儒家の理念が文学をも支配し、情愛の発露を抑制したこと、そしてその代わりに友情の文学はほかの文学に較べて突出していること、などである。 表面的には従来の捉え方が確認されたのだが、新たな視点として浮かび上がってきたのは、恋愛の文学と友情の文学とは別個のもので恋愛文学の代替として友情文学が豊富になったというこれまでの理解は不十分であり、本来文学の根底にあった情愛の文学が、儒家的理念から容認されうるものとして友情の文学にかたちを変えてあらわれているのではないか、という推測である。つまり友情の文学とは中国士大夫の間で抑圧された恋愛文学の変形として把握すべきであるのだ。このように考察をすると、恋愛文学のなかでは常套のモチーフが友情文学のなかに生かされているという現象が鮮明に見えてきた。
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