中国文学の精神の基軸には、いわゆる「詩言志」に由来する「言志」の伝統が核となっている。従ってその「言志」の精神が個々の文学者にあってどのように実現されてきたかを見ないでは、中国文学の価値の具体は何も捉えることはできない。 私はこれまで、その典型的な様相を3世紀半ばの三国魏末の文学者院籍と〓康の文学のありようの中に見てきたが、本研究において第一年度は、阮籍・〓康の言志性の再確認・及び阮籍・〓康から陶淵明へと言志の伝統がいかに展開されていったか等について、以下の3点を中心に検討した。 第一には、〓康の「太師箴」のなかに、〓康の言志性と表現営為の意味とを見いだした。 第二には、阮籍・〓康から陶淵明へと受け継がれる言志の精神を考えることを目的として、陶淵明的な言志の深化の様相を、日付を刻んだ陶淵明詩の中に認め、分析を加えた。つまり、日付を刻んだことに陶淵明詩の言志性のありようの端的な姿を認め、陶淵明にとっては詩を書くことはかく在る自己と向き合い、かく在るべき自己をどこまでも問い続ける場であったことを確認した。この成果は本年度中に公表した。 第三には、梁の江淹が阮籍の「詠懐詩」を模擬した連作「效阮公詩十五首」について、検討し、南朝詩人が阮籍の精神をいかに受け継いだかについての見通しをもった。サロンの産物としての模擬作ではなく、江淹が現実における自己の現在と誠実に向き合ったときの作品であり、単純な受容と模擬の枠を越えてしまう所に江淹の苦悩と感傷とがはっきりと伺え、それは江淹の偏りであると同時にまさにそれ故に真の言志性に他ならないと位置付けることができた。
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