英国小説勃興についての従来の研究は、17世紀末から18世紀初頭にかけてのロマンスや犯罪者の伝記等について行われてきた。小説以前に文化表現の主要な媒体であった演劇との関連については殆ど注目されなかった。本研究は、英国小説の淵源を16世紀末から17世紀初頭にかけての英国ルネサンス期に存在したドメスティック・ドラマ(家庭劇)の中に、約一世紀後に出現する英国小説の諸要素がすでに包含されていることを明らかにするとともに、ドメスティック・ドラマにおける諸問題の探求を通じて、それを継承したジャンルである英国小説がいかなる本質を持っているのかを解明することを目的とした。ドメスティック・ドラマの出現は市民社会の発展とロンドンという都市の拡大と切り離すことができない。神の秩序の下に安定を得ていた中世的世界観は、近代商業資本主義がもたらした大きな変化に対応することができなかった。神がその存在を隠すことによって人間中心の世界が現出したのであるが、同時にそれは混沌と無秩序の可能性を生み出すことにもなった。さらに、都市ロンドンの急速な膨張によって、農村人口が都市に流れ込み、近代的な都市生活が営まれるようにもなった。その結果、近代文明のシステムに囲い込まれた人間と人間が本来持っている動物的、本能的部分との矛盾・葛藤が、先鋭化することになった。この葛藤は犯罪という形で最も典型的に噴出し、犯罪を中心として展開するいわゆるドメスティック・ドラマが生まれる基盤を形成した。本研究によって明らかになったのは、一見して際物的であり、また演劇全体の中ではマイナーなものでしかないこのサブ・ジャンルが、実は文明と個人の激しい葛藤という巨大なテーマを内在させているということであり、それがデフォーやリチャードソンの18世紀小説に継承されていることである。
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