家庭向けの雑誌で一旦脱色されたエロスは大抵の場合、版本において復元されたというのが研究者に広く流布するトマス・ハーディの改変の文法だが、本研究ではこの文法を吟味・検討し、それが必ずしも初期の小説にはあてはまらないことを論証した。具体的に分析の俎上に載せたのは、『はるか群集を離れて』(Far from the Madding Crowd)の草稿を始めとする未定稿--初出、初版、第2版、1895年版、1902年版--および最終稿(1912年版)で、これらのすべてのヴァージョンを比較・検討することで、この小説を律するのが広く流布する改変の文法ではないこと、むしろ改変によってエロスがさらに脱色されていることを明らかにした。 またハーディ書誌学にあって改変は専ら通時的観点から論じられる傾向にあり、共時的観点から論の俎上に載ることがほとんどなかった。改稿の相互連関や相互反照といったテクスト読解にとって興味深いと思われる点は不問に附され、そのためハーディ研究において書誌学的成果はほとんどテクスト分析に活かされてこなかったと言える。本研究では、『はるか群集を離れて』および『帰郷』(The Return of the Native)に施された改変を共時的観点から分析し、最終的には、改稿によって生じたテクストの亀裂や空白、あるいは撞着する語りに焦点を当てながら、二作を読み直した。そうすることで、新たな分析アプローチの提示をも試みた。なお『帰郷』を分析する際に取り上げたのは、草稿、初出、初版、1895年版、1912年版である。
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