後に地下文書『三人の詐欺師論』として知られることになる『スピノザの精神』(オランダ、1719年)出版には、オランダへ亡命したカルヴァン派知識人が関わっていた。この過激な反宗教文書に見られる「民衆啓蒙」は啓蒙思想を先取りしたものとも言われてきたが、出版に関わる社会的・宗派的環境を調査し、当時の知識人間の書簡を参照するならば、これはむしろカトリック・プロテスタントの自由検討と権威を巡る論争など、長い神学論争の歴史を背景にし、宗教的迫害と道徳的退廃の中で宗教的良心を揺るがされた小インテリたちが、文筆生活の一助とするために出版した一種の風刺的パンフレットと見なせる。また、「ヨーロッパ意識の危機」期に上記のような著作家たちと同じ環境を共有していた、ソッツィーニ派神学者ノエル・オーベール・ド・ヴェルセの特異なスピノザ主義批判は、唯物論への道筋を切り開いたとも言える謎めいたものだった。しかし、これも当時のオランダにおけるプロテスタント内部の神学論争、創造説などをめぐるソッツィーニ派・カルヴァン派の理論的対立を参照すると、プロテスタンティズムの理性主義的傾向と原理主義的傾向がぶつかり合う中で、一種の奇形な産物として唯物論(神をも物体とする)が生み出された過程として理解される。ベルギー国境に近い寒村の一司祭ジャン・メリエが1720年代に残した『覚え書』に見られる、唯物論作成への道筋は確かに独自なものである。だが、その生成過程を具体的に分析すると、彼が日常接する信徒、仲間の司祭たちの理解を常に念頭に置きながら、フェヌロンら当時の護教論者の弁神論、無限論を徹底的に破壊しようとする過程からこの唯物論が生じたのは明らかである。
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