研究概要 |
18世紀リベルタン小説における身体のあり方は様々であるが、ドゥロンによるサドの小説作品の分類、すなわち、「匿名作品群=秘教的作品」と「署名入り作品群=公教的作品」という分類に照応して、身体のあり方も2分することが可能である。すなわち文化が書いてきたような、魂の宿り、内面の表れとしての身体と、摂食と排泄、性交を繰り返すための非文化的な身体に分けることができる。後者の身体は究極的には神経と筋肉と細胞、すなわち生物組織に還元できる、内面を排除された身体である。こうした身体は解剖学や生物学には見られても、サドの匿名作品群以外の小説作品に探すことは難しい。 同時代のラクロは文化的な身体によってのみ不道徳な物語を構成した。そこでは美徳や善意が愚弄されることはあっても、やはり、内面の捉える世界が語られている。出来事としては必ずしも重要でない日常の瑣末な事象やその写実が物語の背景となり、人物たちの退廃した嗜好や主張を支える。同様のことが、サドの署名入り作品群や最初のジュスチーヌ作品についても言いうるだろう。これに対し、サドの匿名作品群は、人物たちの身体から内面を排除し、語りからも人間の内面を否定しようとするために、語られる身体は性的な部分に集中し、一身体としての統合がなくなる。またこうした身体が経験する出来事を統合して語ることも不可能になる。裸体画に描かれた裸体が、モデルの身体よりも、むしろ,神話や文化がすでに描いてきたもの、指示対象物以外のものと結びつくことで、意味を成すのと同様、小説作品における身体は、よしんば欲望の消費対象としての身体であっても、生物学的身体を指向するわけではなく、文化的コードに結びつくことで作品において有機的機能を果たし、作品を可能にする。内面が排除された身体、身体に内面を認めない語りによる物語は統合を決定的に欠いているために、永遠に完成することのない作品となる。
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