リベルタン小説において可能な2通りの身体の在り方である。まず、ひとつはリベルタン小説以外においても見られるような、内面を非言語的に表現する身体である。これは、人間には語るべき内面というものがあり、それは身体を通じて非言語的に発信されるという前提のもとに成立する。また、これを受信するのは他者の内面である。ラクロ『危険な関係』のリベルタンは極悪非道の人非人であるが、しかし、こうしたコミュニケーションの上に成り立つ人間関係のなかで活動する。これは彼らの活動揚所が社交界という、きわめて社会的、文化的な場所であることと連動している。ラクロのリベルタンは言語的、非言語的コミュニケーション双方に精通しており、感受性、慈善、涙等、当時評価を得ていたものの意味を堕落させる。ディドロの『修道女』もこうした前提で描かれている小説である。また、サドにおいても人物たちが社会的領域のなかで活動する署名入り発表作品群においては、善人も悪人も人間の内面に基づく非言語的コミュニケーションを行なうが、こうした作品群におけるサドのリベルタンたちはむしろ、当時の価値体系に掠め取られており、ラクロのリベルタンのような言語的曲芸までは見せない。 一方、サドの匿名作品群においては、人間に内面というものをいっさい認めない世界が出現する。人物たちは法や道徳はおろか、社会的文化的な環境から切り離された場所で活動し、彼らが見せる反応はすべて生物的反応に還元される。身体はそれまでの文学、芸術、文化において先験的に与えられてきた特権をすべて剥奪され、筋肉、神経、生物分子、あるいは、鉛、硫黄等と等価になるが、そうした世界においては人間を記述すること、延いては小説を展開することが不可能になり、人間は文字通り数字に換算され、小説の記述は『ソドムの120日』の最後に付されているような計算表に変わる。
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