ブルノにおいては、6月にシュピールベルク博物館を視察、翌日は、フロドロヴァ女史とともにブルノ市文書館の書庫にて、1890年代のムージル家およびドーナト家の軌跡を調査、従来の伝記に漏れていた事実をいくつか発見した。また州裁判所にて、1891年にムージル家が購入した家の不動産台帳を調査。さらにアウグスティーナガッセ10番地のムージル家が入居していた住居を視察。172m^2の広大な住居を撮影し、住人のレスナ家の人びとから情報を得た。14日はブリュン郊外のキリタインの巡礼教会を見学(1902年にムージルが橇旅行で参詣)。16日はボルツァーノ郊外のロンコロ城(短篇『ポルトガルの女』の舞台)にて、リッツォーリ博士、学芸員のトルグラー氏と面談、貴重な情報を多数えた。同日、ボルツァーノ市文書館にて、オーバーマイル博士に面会、1915年当時のボルツァーノの資料などを収集。17日はグリースのディ・アンジェリ家(1915年にムージルが1年間居住)を訪問、地下室から屋根裏までほぼ家屋の全容を撮影した。またテスマン図書館を訪問、資料を収集した。12月末にブルノを訪れ、官庁・警察・刑務所複合体(Zeile 71)およびその周辺を調査。短篇「トンカ」にあらわれる、工場、住宅の混在する「ブリュン郊外」の様子が把握された。さらに日記に言及されたカフェ・ヴァリエテ「カジノ」および「ユニオン」の跡地を視察。また日記にあらわれる「フランツェンスベルク」を踏査した。成果は12月の関西学院大学の招待公演「ローベルト・ムージルとブリュン」および3月の中央大学人文科学研究所の研究会において、都内の7名のムージル研究家も含めた聴衆の前で発表した。また中央大学の紀要「ドイツ文化」(2月発行)に50頁にわたるドイツ語論文を発表し、さらに同補遺を脱稿し、10月発行の人文研紀要に掲載する予定である。
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