「贖罪と刑罰」の問題は人類史上、社会と文化とに<埋め込まれた>存在である。この点では、他の諸問題と比べて、格段の重みを持っていた。「贖罪と刑罰」は種々の文化要素、宗教、呪術、法、経済、権力、裁判、習俗などと深く結びついていて、容易に分け難い存在であった。 始原的には、「贖罪」は宗教、呪術と結びついており、非行によって生じた共同体の穢れを払い、神の(神神の)怒りを解くための、共同体内部的儀式として営まれていた。従って、いわば「内部的」刑罰-「国津罪」の系統に属していた。 「贖罪」思想をこうした宗教的違反、軍事的違反、性的タブー違反の系列(穢れの思想)から解放したのは、ヨーロッパ中世初期(8-9世紀)において裁判権力者の、地域における「平和」維持の志向であった。この志向を背景になって、裁判不出頭者や判決不服従者にたいする「アハト」(追放)の刑罰(公的刑罰)が登場してきた。 こうして「贖罪」観念はヨーロッパにおいてしだいに個人主義化し、世俗化する。非行者本人が謝罪をおこなったり、非行者の親族友人が放免を請願したりすることを契機に、裁判権力者は非行者を恩赦に付したり、巡礼行を課したりして、刑事司法の中に、新らしい意味の「贖罪」観念を導入していった。 中世後期から近世初期の時代(14世紀から17世紀)には、糺問的職権的司法がしだいに広がっていくものの、いまだ当事者主義裁判が影響力を行使していた。糺問的職権的司法が制度的定着を見る以前の、刑事司法のきわめて流動的、混乱的時代に、当事者本人の「贖罪」思想を背後にした、殺人の和解やウァフェーデの誓約がある一定の役割を果たしえたのには、理由があった。
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