本稿は、韓米地位協定締結の政治過程を明らかにすることを目標とした。この韓米地位協定は、その後1991年と2001年の2度にわたり改定され、その運用も改善されてきたが、66年度に締結された地位協定は、その基本的な枠組みを変えることなく現在に至っている。そのため駐韓米軍による事件や事故が発生するたび、繰り返し問題の根源として指摘され関心の的となってきた。資料としては、従来このテーマの研究においては使われたことのない韓米両政府の外交文書を調べた。分析の結果、締結への交渉を促進した要因として次の三つを挙げることができる。 第一に、国内的要因として、交渉は韓国の国内政治が民主化に向けて動きを見せるとき、または学生運動などの反政府運動が組織的な展開を見せるとき、進展があった。第二に、南北間関係においては、韓国が過剰な「戦場国家」意識から離れ、体制競争の「経済『戦場国家』へと変貌しようとするところで米国の一定の譲歩を引出すことができた。第三に、東アジア地域のレベルにおいて、韓国が米国の地域戦略に自らの利益を積極的に重ねようとしていたとき、交渉は進展した。 反面、交渉阻害要因は、もっぱら韓国の国内的な文脈から発見できる。自国民にも不利な国内法の存在は、他国との条約条文をめぐる交渉でも不利な働きをしていた。韓国政府の「戦場国家」としての自己認識は、法律用語としての「休戦」や「戦争の持続」などについての解釈の幅を極端に狭くし、その結果として他者を相手にした交渉の場で自らの運身の幅を狭くしていたのである。そのような限界のなかでも、韓国政府は対米交渉戦略を練る過程で「日米協定」を選択的目標として設定していた。しかし、「日米協定」方式のいくつかの柱は、韓国の特殊な立場を考慮し、排除しなければならなかったため、それは「選択的」目標でしたなかった。
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