かつて南米随一の民主主義国家であったウルグアイは、1973-85年の軍政期と、それに先立つ時期に、政治的反対派と目された人々にくわえられた人権侵害を訴追しない法案(失効法)を通過させ、かつその存続を国民投票で承認している。人権侵害のうちとりわけ強制失踪は、多くの事件がアルゼンチンで発生したこともあいまって問題の存在すら「認知」されてこなかった。2000年8月、バッジェ大統領が国民和解のため設置した「平和のための委員会」は、強制失踪被害者と目される人々の遺体を発見し、遺族に返すことを主な活動内容とする。この委員会の設置について、遺族の団体・人権団体ははじめて強制失踪問題に光を当て、公に口にできるようになったという点で高く評価するが、「裁き=正義」の問題に触れていない点に不満を表明している。実際、加害者側と目される人物らは何の反省もなく、その一人Baudeanは、和解委員会のメンバーであるOsorio司教にたいし脅迫的言辞をはき、問題となっていた(2002年3月)。むしろ、軍政時代の外相J・C・ブランコが、2002年10月、エレナ・キンテロスの強制失踪(彼女は1976年6月28日、政治的庇護を求めて駆け込んだ在ウルグアイ・ベネスエラ大使館の庭から引きずり出された。この件でベネスエラはウルグアイと断交)にからんで「自由剥奪罪」で有罪判決を受けたことのほうが、遺族感情その他の点で満足のいくものであったといえよう。文民は失効法の適用外であるので裁判にかけられたわけだが、ただし、反面、文民だけを対象とする方式は「反騒乱作戦を命令したのは文民政権」という軍部の主張を補強しかねない危険性も持っているといえるだろう。
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