1960年代以降、「国家安全保障ドクトリン」に基づいて軍・警察が非暴力的な組合運動や左翼運動をも弾圧するようになったウルグアイでは、1973-85年の軍事政権下で多くの国民が投獄・拷問された。こうした弾圧をさけるため、おもに隣国アルゼンチンに逃れた人々のなかには「コンドル作戦」の対象となって強制失踪させられたもの、作戦時に殺害されたもの、暗殺されたものがいる。 2000年8月、バッジェ大統領が国民和解のため設置した「平和のための委員会」は、免責の是非については決着済みとしながら、強制失踪被害者と目される人々の遺体を発見し、遺族に返すことに活動を限定し、2002年末に任務を終了した。 この委員会はウルグアイで長い間無視されてきた強制失踪問題が存在すること、失踪に国家が関わっていたことをはじめて認めた点で、強制失踪被害者遺族から評価された。だが軍部が情報を提供せず、謝罪もせず、また委員会の調査では被害者の遺体の所存を突き止めることはできなかったことなどから、委員会は加害者と被害者の和解や社会の平和ももたらしたとはいえない。 しかも米州諸国における強制失踪問題は新たな展開をみせ、委員会設置当時のバッジェの思惑(遺体発見に限定し訴追は回避)を超えている。まず、米州人権裁判所はペルーにかんし免責法が米州人権条約違反であるとはっきり認めた。2003年5月に就任したアルゼンチン・キルチネル大統領が自国の免責法廃止と軍政時人権侵害の訴追を決めたこともバッジェとウルグアイに対する圧力となっている。
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