従来の研究では、この時期のヒルファディングの情勢認識について「現実的平和主義」と「組織資本主義」への移行を強調したものや、賠償問題では第二次社会化委員会の1921年度の公刊議事録のみを部分的に論じたものがあるにすぎない。1923年の財務大臣時代については、彼の決断力の不足や客観情勢の悪さを指摘する研究があり、また彼が論敵の通貨案にも融和的態度を示したことで誤りを犯したとの批判があるが、他方では彼が過剰流動性の除去のために、大幅な通貨削減を主張したのは正当だったとの評価も一部で見られる。 彼はまず1921年5月のロンドン最後通牒を厳しく批判しながらも、「履行政策」をとる独立社会民主党決議を起草し、賠償とインフレ阻止のために国庫均衡の重要性を説いた。彼は社会化委員会の暫定声明で生産増の枠内における賠償や源泉課税を、そして秘密会議決議では外債による外貨調達を提起した。暫定国家経済協議会では早期徴税のみならず、金価値、実物価値の捕捉を主張した。1921年11月からの第二次ヴィルト内閣時代に彼は「税妥協」による強制公債案を批判する暫定国家経済協議会の委員会決議をまとめ、ライヒ銀行独立性問題では「国家内国家」を懸念し、さらに社会化委員会報告書では賠償負担の軽減や内外公債発行の必要性を説いた。そして対外的には英国の「現実的平和主義」に賠償問題の解決を期待し、また1922年4月ラパロ条約による対露国交回復と賠償相互放棄の実現に尽力した。1922年6月ラーテナウ外相暗殺を期に彼は両社会民主党の統一を図り、そしてマルク相場崩壊に対して暫定国家経済協議会の委員会決議で脚賞繰り延べと国際借款を主張した。さらにライヒ銀行の金資産の活用と価値安定証券の発行を求める決議を、社会化委員会決議や統一社会民主党決議と同様にとりまとめて政府に働きかけた。だが賠償協議の難航から1923年1月ルール占領を招くことになる。
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