ヒルファディングは1923年1月のフランスとベルギーのルール占領を権力策と批判しつつも、履行政策を再確認して、経済的和解のために両国に直接働きかけ、また組織された資本主義の独占的支配と暴力精神との対決を訴えた。この間彼は通貨崩壊阻止のために外貨管理や投機防止、信用規制、そして財政均衡のために税の実効化、金信用、価値安定賃金などを提起したが、抵当の増額評価には反対した。8月に彼は財務大臣就任後強力な租税策と外貨強制公債を追求し、財政再建策として奢侈品の関税引き上げや官吏減員、国防支出削減などを立案し、同時に受動的抵抗の停止に向けた外交努力を訴えた。他方彼は通貨安定のために「金に縁取られた」本位制として、中央銀行を主体に金発券銀行を設立して金マルクを発行し、あわせてヘルフェリヒ案をも補完的に利用する通貨案を提起した。しかし彼の案は中央銀行の反対で実現せず、結局彼はヘルフェリヒ案に依拠したルター案をもとに、力関係の妥協の中で自分なりの意図を極力反映させようとした法案を作成した。それは経済全体の金マルク土地債務と債務証書に基づいて発券銀行を設立して新通貨を流通させ、国と中央銀行等に信用供与するものであり、後のレンテンマルク発行の基礎となる。9月下旬の受動的抵抗の停止後も彼はなお財政再建の努力を続け、そして賠償問題では包括的処理を求め、また支払能力の検討を連合国に要請する覚書を起草した。彼は10月初頭の政権危機時に授権法や8時間労働制でも歩み寄りの姿勢を示して、連立政権の維持を図ったが、それはなによりも彼が政治的反動の危険性を深く憂慮していたからである。まさに国家的危機の中で、彼が国際協調による賠償問題の解決、民主的共和制の維持、国民生活の社会的経済的安定のために果たした役割は決して小さくなかった。彼の理論的、実践的活動は、相対的安定期以後も引き続き新たな課題への対応を迫られることになる。
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