ヒルファディングはヴェルサイユ講和条約を連合国帝国主義ととらえ、1921年5月のロンドン最後通牒を、過大な賠償負担や連合国自身へも害となる自己矛盾から厳しく批判しながらも、平和的修正を期待して「履行政策」を説いた。彼は社会化委員会では生産増の枠内における賠償や源泉課税を提起し、暫定国家経済協議会では早期徴税とともに、金価値資産と実物資産の補足、動産資本の管理強化を主張した。1922年初頭に彼は政府の「税妥協」による強制公債案を批判し、ドイツ中央銀行独立性問題では「国家内国家」を懸念した。そして対外的には英国の「現実的平和主義」に賠償問題の解決を期待し、また同年4月にはラパロ条約による対露国交回復と賠償相互放棄の実現に尽力した。6月のラーテナウ外相暗殺を機に彼は両社会民主党の統一を図り、そして通貨価値下落の状況で、賠償猶予と国際借款を主張し、さらに中央銀行の金資産の活用と価値安定証券の発行を求めた。彼は1923年1月のルール占領を権力策と批判しつつも、経済的和解のために働きかけ、また組織された資本主義の独占的支配と暴力精神との対決を訴えた。8月に彼は財務大臣就任後強力な租税策と外貨強制公債を追求し、同時に受動的抵抗の停止に向けた外交努力を訴えた。他方彼は通貨安定のために「金に縁取られた」本位制として、中央銀行を主体に金発券銀行を設立し金マルクを発行し、あわせてヘルフェリヒ案をも補完的に利用する通貨案を提起した。しかし彼の案は実現せず、結局彼はヘルフェリヒ案に依拠したルター案をもとに、自らの意図を極力反映させようとした法案を作成した。それは経済全体の金マルク土地債務と債務証書に基づいて発券銀行を設立して国に信用供与するものであり、後のレンテンマルク発行の基礎となる。9月下旬の受動的抵抗の停止後も彼はなお財政再建の努力を続け、10月初頭の政権危機時に連立政権の維持を図ったが、それは何よりも彼が政治的反動の危険性を深く憂慮していたからである。まさに国家的危機の中で彼が国際協調による賠償問題の解決、民主的共和制の維持、国民生活の安定のために果たした役割は決して小さくなかったと言える。
|