第1次世界大戦勃発時、イラン北部は、戦前にすでに軍事侵入していたロシアによって実効支配されていた。たとえば、アーザルバーイジャーン州では、ロシアが行政官を任命し、警察を組織し、ロシア系銀行に税が納入されていた。また、ギーラーン州などへは、農民の組織的移民が行なわれた。一方、南部へのイギリスの浸透には、軍事侵攻や植民はみられなかった。中部の中心都市エスファハーンでは、イギリス、ロシアにドイツも加わって、権力抗争が繰り広げられていた。これは、現象的には「地元の元州知事(カージャール王族)と現州知事(バフティヤーリー族)との権力抗争」であったが、彼らの背後にはヨーロッパ列強がついていた。すなわち、エスファハーンという局地に当時の「国際関係」が集約的に表現されていたのであった。 1915年初め、200名ほどのドイツの工作員がイランに潜入した。ドイツのイランにおける工作は、第1次世界大戦期を通じてイギリスを悩ませることになる。イギリスは開戦当初より、ペルシャ湾の奥における石油権益を守る決意であった。このために小規模な部隊をインドから派遣し、トルコからファオとバスラを奪取した。さらにイギリス軍はバグダード奪取を目指すこととなる。ドイツのイランにおける活動の狙いの柱は、インドへと達することであった。当然のことながらイギリスとロシアは、これを阻止すべく防衛線を張ったが、これを突破してアフガニスタンに達する者たちがいた。だが彼らは、インド全土を、したがってイギリス帝国を震撼させることはできなかった。
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