本年度は、研究テーマ「ホロコーストの論理」に関する最新の研究の文献を院生アルバイトなども使って調査し、批判的に検討し、整理した。ヒトラー絶滅命令の有無と時期設定が問題と論争の焦点であり、私は、41年12月説である。欧米と日本の多様な主張(最近では41年春から41年12月までに集中してきているが)を踏まえ、最近のソ連東欧現代史研究の進展を踏まえて、従来の私の主張である41年12月説を確認できた。 すなわち、41年7月末〜8月初旬以降、ドイツが占領したソ連地域で拡大していくユダヤ人の無差別殺戮は、対ソ攻撃の基本論理、急速に拡大する占領地域、奇襲攻撃を受けた呆然たる状態からただちに正気に返ったソ連軍の猛烈な抵抗が始まったこと、スターリン指導部がパルチザン戦争を呼びかけたこと、そのような占領地治安秩序確立の諸問題の激化のベクトル群のなかで理解すべきである。ヒトラーの特別のユダヤ人絶滅命令を想定すべきではない。 ドイツの短期電撃的な対ソ戦勝利の展望が失われるのと平行して、ドイツ支配下の全ヨーロッパで反ドイツの気運が高まり、そのいわばガス抜き政策として、41年9月以降、西ヨーロッパおよびポーランドとバルカンのユダヤ人を東方に移送する必要性が次第に大きくなった。ヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒはそこで過渡的で臨時的な移送政策を遂行した。しかし、過渡的臨時措置の実行すらも不可能であることが判明した。その苦境のなかで、ヒトラーは、日米開戦に呼応して対米宣戦布告をせざるを得なかった。文字どおりの世界大戦化が総力戦敗退の最初の徴候のなかで起きた。これが移送政策から絶滅政策への移行の決定的要因であり、論理である。
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