過去2年間の研究実績をまとめて出版した『ホロコーストの力学-独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法-』青木書店、2003年に関して、さらに詰めるべき論点をいくつか調査し、実証研究を行った。 その成果として論文「総力戦とプロテクトラートの『ユダヤ人問題』」をまとめ、ここでは1941年9月から1942年のハイドリヒの行動を追跡した。彼が、ベーメン・メーレン保護領総督代理に任命されることになる独ソ戦の予期しない展開、保護領における抵抗の高まりは、ユダヤ人問題の解決にも転換点をもたらした。すなわち、短期電撃的な勝利の後、ソ連のいずれかの地域に送り込むという構想は挫折した。むしろ、当面、一時的な回避策として、ベーメン・メーレンのユダヤ人の移送を開始せざるを得なくなった。 しかし、その送り先として計画した場所も、受入余地がないことが判明してくる。そこで、ハイドリヒみずからの統治責任からいって、また不穏状態の鎮圧のひとつの策として、ヘウムノ(クルムホーフ)でのガス自動車による抹殺政策を開始するに至った。これを明らかにした。 この過程で問題になるのが、特殊自動車ガス自動車の開発投入であり、それに関する第一級の一次史料として、連邦文書館の文書を検討し、キードキュメントとしての重要性から、史料そのものを交換しておく必要を考え、史料紹介論文「特殊自動車とは何か-移動型ガス室の史料紹介-」をまとめた。極秘中の極秘の内容とは、まさに排気ガスを箱型荷台に導入するという事実そのものであった。 このガス自動車の開発と導入が1941年11月から12月にかけてであり、本格的投入は1942年であった。世界大戦への決定的移行、総力戦の泥沼化が、第三帝国治安警察機構(ハイドリヒ、ヒムラー)に、西ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策の遂行を決定付ける。
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