本研究は、中世住宅における文献史料と掘立柱の住宅遺構から、当該期の武家住宅の実態と上層民家遺構の関係を検討することを目的としていた。従来の日本中世住宅史では、鎌倉時代の武家住宅の研究が十分でなく、その実態が不明であったために、まず『吾妻鏡』を中心とする文献史料を再検討し、鎌倉における上層武家住宅の規模や位置を検討した。その結果、従来から赤橋亭として知られていた住宅の発生から相伝までを明らかにし、これに隣接する西殿という住宅の沿革も明らかになった。この両者は、大倉邸に居住する得宗を補佐する有力者がすむ邸宅であった。前科研による研究成果も含めて、以上で鎌倉に置ける北条氏の邸宅が明らかになったので、つぎに各住宅の施設史料を検討し、鎌倉時代の武家住宅の実態を把握し、掘立柱の上層民家との関係を考察した。武家住宅特有の施設として台所があるが、これは土間と床上部をもち、民家遺構と同質の建物であることが判明した。また、鎌倉武家住宅にはデイと呼ばれる主屋または主室があるが、これが嘉禎2年の泰時の小町邸にたてられた御成り御殿から寝殿造の建築様式を導入し、接客儀礼の専用施設となることで鎌倉中期から平面形式の変化が起こったことが推定された。このことと、上層民家遺構にみられる鎌倉後期からの広間型の出現過程が関係をもつと考えられることが推定できるようになった。
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