本研究はヒトゲノム計画の第一段階である塩基配列特定のほぼ完了した状態である現代以降、ヒト遺伝学の次の研究目標が徐々に達成されていく過程で、そこから生じてくる文化的、社会的、思想的、哲学的問題群を思考実験的に考察し、それらの変化に向けての適切な社会政策や科学政策の提言をし、またはその思想的意味の充全の開示を目指すものである。本年度はまだ初年度であるために、文献収集やその一次近似的分析にほぼ終始した観があるが、この主題設定自体がもつ重要性の自覚はなんら減殺していない。ヒト遺伝学そのものとは直接関係がないにしろ、くしくも本年度はクローン人間誕生騒ぎが世界中を駆けめぐった。生命科学一般の驀進がもたらすある種の歪みについて、単に専門の遺伝学者だけではなく、哲学や思想史にかかわる人間も、積極的に参加すべきだという判断は、もはや一定の社会的認知をうけたといって過言ではなかろう。本研究もまた、その文脈に位置づけられるものである。 上記のように本年度は文献収集とその部分的で一次近似的分析がおもな作業だったが、そのなかからいくつかの成果をあげることはできた。そのなかでも最も重要なものは、ドイツの重要な雑誌『教養と教育哲学年報』に今年4月頃公刊予定の「遺伝的生命設計の哲学」(英文、現代Philosophy of genetic life designing)という長編論文であろう。そのなかで私は、過去の遺伝学がもたらしたいくつかの政治的、社会的災禍についての歴史的確認を経たうえで、ここ十年弱くらい、おもに英語文献のなかで出現している新優生学について触れ、それが人間の文化的基層に思いの外深く根ざしたものであるということを確認しておいた。
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