本科研費補助金による研究は、申請者の論文「コレラとスエズ運河」の拡張を図る意図で企てられたものである。先の論文が対象とした時代は1880年代である。本課題ではもう少し時代を遡ってまさしくイギリスでコレラが流行した時期、すなわち1830年代から1860年代の衛生政策を対象どした。すなわちイギリスのきわめて政治的な衛生対策がどのような過程をへて形成されるに至ったかを明らかにしたいと考えた。調査を進める中で、ロンドンの衛生対策は二面から推進されたものとして研究すべきことが明らかになり、両面から取り組んだ。 一つはテムズ川の汚染を解決すること、もう一つはクリミア戦争のときスクタリの病院で出した16000人の犠牲者から得た教訓を病院や医学教育に生かすことであった。テムズ川汚染は、1855年のマイケル・ファラデーによる汚染の視察や1858年の大臭気事件などでよく知られるものであるが、実際にはそれ以上の研究はあまり進んでいない。テムズ川の浄化はテムズ川に沿ってロンドンの北側と南側に大規模な遮断下水道を建設することによって達成された。この際、単に屎尿を海に廃棄するのではなく、1840年代にドイツの化学者リービッヒによって明らかにされた農芸化学的な知見に基づいて、屎尿をリサイクルすることが奨励された。大都市ロンドンでは最終的には成功しなかったが、今日の環境間題を考える上でも興味深い展開である。 他方クリミア戦争のほうは、ナイチンゲールに深く関係する政策で、病院の衛生対策の根本的な見直し政策である。傷病兵を戦地で介抱するのではなく、高速の蒸気船で本国に運び手当てをする政策が打ち出され、桟橋を備えた近代的な病院建設がクリミア戦争終結直後の1856年5月に構想された。病室の換気に重点を置いたパビリオン方式の病院である王立ヴィクトリア病院の完成も19世紀後半の衛生対策と深く関わるものであることが明らかにした。
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