(1)上野国内北部地域の調査として群馬郡石原村登坂宇左衛門長昭(1826-1899・樋口定伊より弘化4年に目録・現在渋川市石原の登坂秀が当主)家、秀昭(1852-1928・樋口定廣門弟)、千昭(1876-1918)に目録が保管され、馬庭念流門人のなかでも中心的な存在であることが馬庭念流奉納額活動への参加などから判明した。 (2)馬庭念流以外の奉納額活動につき、伊香保町水澤観音で中西派一刀流・中西忠兵衛子正門人中澤源藏清忠門人奉納額(安政3年1月175名の姓名)および安政3年3月額を調査。念流をはじめ他流派名「念流」「柔術一心流」「止心流」「石川流」「霞真流」「神真道流」「真影流」「石川流」「応心流」を肩書きとする名前が載る。幕末期、念流の地盤での他流派のつながりをみた。 (3)熊本県菊陽町富永家牧堂文庫所蔵の剣術関係古文書のうち、新潟高田藩藩士倉地陽次郎正久が弘化3年(1846)3月26日〜安政2(1855)まで11年間、上野国、武蔵国、常陸国、上総国、下総国を廻国修行した記録に、馬庭念流免許の四分一兵右衛門との交流したことが記されており、幕末の国情において馬庭念流では禁止とされた他流試合を行っていたことが分かった。 (4)伊勢神宮内宮に天保3年(1832)3月、馬庭念流は寄付金(1423名)を集め、奉納額を掲げた。この忠実の検証のため神宮文庫所蔵の長官日記を熟覧したが記載が無かった。伊勢御向井館太夫(むかいだちだゆう)が間に入っていたと思われ(樋口家所蔵書簡「覚」)るので、継続調査を行う。 (5)松井田町教育委員会佐藤義一氏が行った平成7年調査記録に基づき、碓氷峠熊野神社の奉納額のデータベース化をはかった。次年度本格調査に向けた基礎資料とする。
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