研究概要 |
民族的マイノリティーとして,本研究で対象とした「社会」の形成は,いずれも農業労働者も含めた農業移民の,既成の民族的マジョリティー社会の存続している地域の未墾地への入植を契機としている。それだけに,入植当初より,社会経済的・歴史文化的な差別・偏見を顕在化させていた。具体的には,明治期末から大正期初にかけて,台湾東部・花東縦谷平野に村建てをみた「吉野」・「鹿野」の日本人村では,現地のマジョリティー社会に対して社会文化的優勢を保ちながらも,経済的には劣勢に悩まされ結果として,厳しい閉鎖社会を造り出し,当該社会を必要不可欠な最低限の「人間存在の基礎的機能」を充足する生活空間に押しとどめている。従って,より良質の諸機能を求める場合には,挙家離村という形態をとるため,当該生活空間の拡大・拡充は望むべくもなく,新来の農業移民,台湾定着の中継的な役割を演じる生活空間となってきていた。これに対し,大正期末から昭和期初にかけて,琉球南部・石垣島の名蔵平野に村建てを行った「名蔵」・「蕎田」の台湾系漢人村では,現地のマジョリティー社会から,あらゆる面において厳しくかつ激しい差別を受け、文字通り「白手起家」で確立した生活機構に対しても,その充実を妨害する動きにさえ遭遇してきている。そこで彼らが編み出したのは,当該地域の彼らの生活機構に彼らの伝統的な互助組織である「幇(パン)」組織を縫合させることであった。つまり,グローバル化している「華人ネットワーク」の末端組織を当該地域に結成することによって,経済的・文化的には「マイノリティー社会」としての独自性を構築・強調しながらも,社会的・歴史的には「マジョリティー社会」への同化を推し進めて行くという方策である。 それゆえ,本研究で明らかになったことは,日本人の農業移民から成るマイノリティー社会では,前述の基礎的機能の充足が同社会の中で,ほぼ整備されることが,村建ての前提になるのに対し,台湾系漢人の農業移民から成るマイノリティー社会では「居住」ならびに「働く」という基礎的機能さえ充足されればそれが村建てに,マイノリティー社会の結成になり,その他の基礎的機能はマジョリティー社会に依存して充足して行く傾向にある。すなわち,日本人移民の生活空間は,機能的充実性には富むが,閉鎖的で,拡張性に欠けるのに対し,台湾系漢人のものは,充実性には欠けるが,極めて開放的で膨張性がある。
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